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まちづくりデジタルコラム(2007年分)


都市は生きており、絶えず活動を続けて変化していきます。その都市に適した個性的なまちづくりを進めるために、各地でローカルルールを制定する動きが活発になっています。
これらの動きを追いながら、まちづくりのあり方、進め方について考えます。

中心市街地は依然として元気がありません。その中で街を活性化するためいろいろな地域でいろいろな試みが行われています。
このコーナーでは、各地のホームページを覗きながら街づくりの試みを勉強したいと思います。


「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地(8)
これまで、東京多摩地域の中核となっている4地区(吉祥寺、立川、八王子、町田)について、大型店の立地動向を見てきましたが、最後に4地区をまとめて比較して見たいと思います。
資料は全国大型小売店総覧 東洋経済新報社(2006年4月現在)です。
開店時期別の店舗数の推移をたどったものが下に示した図です。
大型店立地の動きが活発だった時期は、3つありそうです。(1)1970年代、(2)1990年代、(3)2000年代です。
(1) 1970年代は、時あたかも”日本列島改造”ブームの時期で、4地区共に店舗立地が活発でしたが、中でも吉祥寺が際立って多かった事が示されています。吉祥寺はこの時期をピークとして、その後立地店舗数が急激に少なくなり、遂に0になります。
(2) 1990年代は、頂きを作っているのは、町田と八王子の2地区です。2地区ともに、この時期がピークとなっており、特に町田の立地店舗の多さが顕著で、70年代の吉祥寺と並んでいます。主な交通機関であるJR横浜線は、1980年代に複線化が完了して、大変アクセスが良くなったのですが、その事も関係しているのでしょうか。
(3) 2000年代に、頂きを作っているのは立川だけで、21世紀に入って1地区だけ上り坂と云った所です。立川は、立川基地の返還跡地を利用した都市再開発が、平成に入った頃相次いで都市計画決定され、約20年間事業化が続けられて来ています。その成果が漸く現れてきたのが今日の姿と云えます。


(2007.12.30)

「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地(7)
今回は4地区(吉祥寺、立川、八王子、町田)の最後となった町田の状況を見たいと思います。
資料は全国大型小売店総覧 東洋経済新報社(2006年4月現在)です。
町田駅の周辺には、4地区の中で最も多い23の大型小売店が立地しており、店舗面積の合計は立川に次いで172千平方メートルです。
最も店舗面積の大きいのは、まちだ東急百貨店の31,952平方メートルであり、次いで小田急百貨店町田店の26,717平方メートルで、この2店が際立っています。丸井町田店・マルイビルの13,700平方メートル、東急ハンズ町田店の11,670平方メートルがこれに次いでいます。
町田の大型小売店の集積が何時形成されたかを見たものが次の表です。



店舗立地のプロセスを店舗数で見ると、1970年代と1980年代がそれぞれ5店舗づつ新設されており、その後1990年代が8店舗とピークになっています。
上に挙げた4つの大規模な店舗は1970年代に丸井町田店・マルイビルと小田急百貨店町田店、1980年代にまちだ東急百貨店と東急ハンズ町田店のそれぞれ2店舗づつが新設されています。1990年代に入ると立地店舗数は多いのですが、粒が小さくなっており、それぞれの店舗の面積規模は小さいので、町田の商業集積は、1970年代から1980年代までの間に形成されていると言えそうです。
(2007.11.30)

「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地(6)
吉祥寺、立川に次いで、今回は八王子の状況を見たいと思います。
資料は全国大型小売店総覧 東洋経済新報社(2006年4月現在)です。
八王子駅の周辺には、7の大型小売店が立地しており、店舗面積の合計は81千平方メートルです。
集積の規模としては、吉祥寺、立川に比べて著しく小さく、店舗面積は立川の半分以下となっています。
八王子は、かってはわが国の「シルクロード」の中心的な都市として、繁栄を誇った都市だったのですが、これも時の流れと言うことなのでしょう。
最も店舗面積の大きいのは、そごう八王子店の37,492平方メートルで、他を圧倒しています。ダイエー八王子店の12,778平方メートル、八王子東急スクエアの11,180平方メートルがこれに次いでいます。
八王子の特徴的な点が2つ目に付きます。
1つは、店舗数、店舗面積ともに吉祥寺、立川にくらべると小さいのですが、1店舗あたりの面積で見ると、八王子が最も大きいことです。(吉祥寺 9,113平方メートル、立川 11,431平方メートル、八王子 11,640平方メートル)
もう1点は、吉祥寺、立川ともに駅の両側に商店街が形成されているのですが、八王子は北口側だけが商業地となっている事です。これにはターミナル駅として、鉄道ヤードが広く、南口・北口間の距離が長かったのも影響しているように思われます。
八王子の大型小売店の集積が何時形成されたかを見たものが次の表です。



このように店舗の立地は、1960年代から1990年代までの間に見られており、それ以前と今世紀に入ってからは0となっています。近年の店舗新設がない事に一抹の寂しさを感じます。
(2007.11.1)

「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地(5)
前回は吉祥寺(武蔵野市)の商業集積の状況を見ましたが、今回は立川の状況を見たいと思います。
資料は全国大型小売店総覧 東洋経済新報社(2006年4月現在)です。
立川駅の周辺には、16の大型小売店が立地しており、店舗面積の合計は183千平方メートルです。
全体の集積規模については、吉祥寺と余り大きな差はなく、面積で18%程立川の方が上回っています。
最も店舗面積の大きいのは、伊勢丹立川店の37,583平方メートルで、高島屋立川店の32,007平方メートル、立川ルミネの26,561平方メートルがこれに次いでいます。
吉祥寺は早くから、西友・伊勢丹・東急・近鉄(その後撤退)の大型店が巧みに配置されていることによって、しっかりした街の骨格が形成され、回遊性を高めているとして商業施設配置のモデルとして評価されていました。
立川は、それほど教科書的ではありませんが、上記の3つの大型店を結びつけて、その先にある国営昭和記念公園へと導く人の流れの大きな動脈を形成しています。
立川の大型小売店の集積が何時形成されたかを見たものが次の表です。



既に1940年代に1店舗が開設されていますが、その後は1960年代から今日まで大型店の開設が続いており、この10月には、立川駅ステーションルネッサンス〜新しいエキナカ空間の創造〜の第1期のオープンを迎えることになっています。
1940年代に開設された店舗は、駅前広場に近い大通りに面した一等地にあり、現在はビックカメラ立川店ですが、当時から長い間伊勢丹でした。このシリーズ初回に述べたとおり、立川は元々地方都市であり、恐らくは米軍立川基地の経済に沸いていた所に着目したのだと思われます。
その後昭和から平成へ変わる頃から基地返還に伴う再開発が動き出し、2001年に完成した再開発ビルに伊勢丹は増床移転し、その後に入居したのがこのビックカメラ立川店です。
立川の商業集積が形成されるプロセスの最大の特徴は、1990年代・2000年代に大幅な店舗面積の拡大が行われ、その勢いがまだ続いていることであり、1960年代から1990年代の間で集積が形成され、その後動きが止まったかに見える吉祥寺と対照的である事です。

お詫び:前回のコメントで延床面積と店舗面積に混乱がありました。
(2007.10.1)

「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地(4)
4つの中心地それぞれの成立の背景と成長のパターンの違いを見てきましたが、少し各論に入って商業集積の状況を見てみたいと思います。
4地区の相互比較も面白いですが、まずは吉祥寺(武蔵野市)の状況を見てみたいと思います。以下特に断らない限り、駅を中心として半径500mの範囲を対象としています。資料は全国大型小売店総覧 東洋経済新報社(2006年4月現在)です。

吉祥寺の駅周辺には、大型小売店が16立地しており、店舗面積の総計は325千平方メートルです。
最も店舗面積の大きいのは、東急百貨店吉祥寺店の29,543平方メートルで、伊勢丹吉祥寺店の20,491平方メートルがこれに次いでいます。
これらの大型小売店の集積が何時形成されたかを見たものが次の表です。



ここで見るように、1940年代、1950年代には現存している大型小売店は1店もオープンしていなかったのですが、その後大型小売店は1960年代から1990年代へかけて立地しており、しかも全体の70%が1970年代に集中して開店しています。東急百貨店吉祥寺店も伊勢丹吉祥寺店もこの時期に開店しています。そして2000年代にはいると再び新規の開店は0になっています。
このように商業集積は1970年代を中心にして形成されましたが、その後は集積の拡大というよりは、成熟へ向かっていると言えそうです。この点については、後に見る立川の成長プロセスとは極めて対照的です。
(2007.8.29)

「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地(3)
東京大都市圏の連坦市街地の中心地である吉祥寺(武蔵野市)、立川、八王子、町田は、発生的には、地方都市であった八王子、立川と、東京の郊外化の中で形成された吉祥寺、町田に2分される事を前回述べました。
その後の発展のプロセスはどうだったのか、わが国が大きく都市化し始めた昭和30年代からの4市の人口の動きを見てみます。
昭和30年には、八王子14.8万人、立川7.6万人、武蔵野9.5万人、町田5.8万人でした。この当時は各市それほどの規模の差はなく、大まかに言えばドングリの背比べのような状態でした。最大最小で10万人の差も無かったのですが、その後50年間の間に大きな開きが生ずる事になり、そのような人口規模の変化を背景にして街は大きく変化していく事になります。
昭和30年から平成17年までの人口規模の推移について昭和30年を100としてグラフにすると図のようになっています。

このグラフによると最も大きく人口規模が拡大したのは、町田市であり、八王子市がこれに次いでいます。4市をまとめて見ると町田・八王子と立川・武蔵野の2グループに分かれそうです。
この理由を考えるに、市域面積の規模の大きさと住宅立地の゛ふところ゛となる農地・林地等の市街地予費地がどれ程広く存在していたかによって、この50年間の変遷が理解できそうです。
人口規模は、都市の盛衰の背景については説明してくれますが、中心市街地の様子は単純にこのような状況を反映しているわけではなく一筋縄ではいかないようです。
(2007.7.30)

「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地(2)
ここしばらくは大都市圏連坦市街地の中心地の様子を吉祥寺(武蔵野市)、立川、八王子、町田を取り上げて見てみたいと思います。
昨年のまちづくり3法改正のターゲットは、地方の中核都市であったように伺われるのですが、明日われわれは日本列島の何処に住むのかと考えると、圧倒的に大都市圏のシェアが高くなる筈です。
かって大都市で最も注目を集めていたのは中心部の盛り場でしたが、1961年にジャン・ゴットマンが「メガロポリス」を発表して、アメリカ東部のボストンからワシントンに至る連坦市街地の特性を実証的に解析して以来、わが国でも東海道メガロポリスを始めとして連坦市街地についての関心が高まって今日に至っています。
当然の事ながら、連坦市街地は、均一な空間が拡がっている訳ではありません。機能、密度、交通アクセスに違いがあり、それによって地区それぞれの特性が形成されています。
中心市街地は、これら3要素が周辺に比べて高度に集積した地区であるといえます。
これらの地区は行政区域とは特に対応している訳ではありませんが、4地区で市制が施行された時期をみると次の通りです。
八王子=大正6年9月、立川=昭和15年12月、吉祥寺(武蔵野市)=昭和22年11月、町田=昭和33年2月。
これによると、八王子と立川は地方都市としてスタートしており、武蔵野市と町田市は東京の郊外化によって形成されたことが分かります。
(2007.6.29)

「中心市街地活性化」〜大都市圏連坦市街地の中心地
昨年のまちづくり三法改正のプロセスを見ていて、この改正は地方中心都市をターゲットにしているのではないかと言う事や大都市圏と地方都市とを同じ枠組みで捉える事の問題についての感想を述べた事がありました。
ターゲットは地方中心都市だったと言うのは、どうやらその通りの結果を生んでいるようです。政府による基本計画の認定は、最初は今年3月28日に富山市と青森市の2市に対して行われましたが、更に5月28日には、久慈市、金沢市、岐阜市、府中市(広島県)、山口市、高松市、熊本市、八代市、豊後高田市、長野市、宮崎市の11市を認定しています。
いずれも地方の中核的な都市です。
一方、わが国の人口分布については、大都市圏が将来も依然として大きなシェアを占め続ける事になるでしょう。大都市圏の郊外部は、昭和40年代を中心に大きく拡大し、道路が整備されていない、学校が足りない、公園が足りない等低い水準でスタートした連坦市街地を形成していますが、この地域が今後どのような生活の場を提供することになるのか興味がある所です。
このため、しばらくは大都市圏連坦市街地の中心地の様子を見てみたいと思います。
具体的には、吉祥寺(武蔵野市)、立川、八王子、町田を取り上げて、街の個性やイメージ、都市機能の集積状況、成長発展の様子などを比較してみます。
(2007.6.11)

「中心市街地活性化基本計画」〜閑話休題(2)
前回は、製造業中心からサービス経済へ社会が大きく転換する中での大規模開発について若干触れました。
中心地区を考える場合、当然に都市空間の構造が関わってくるとして、3つの地区、 ラゾーナ川崎、豊洲ララポート、武蔵村山のダイヤモンドシティ・ミューは、いずれも工場跡地から大型ショッピングモールへの転換と言う意味では同じでも、都市構造的には全く意味が異なってと言う事を述べました。3地区の比較をもう少し続けます。
[広域的な位置づけ]
ラゾーナ川崎は川崎駅西口に位置しており、川崎都心部の中心的な位置にあります。西口地区は、かっては大型工場が連坦していたのですが、1つまた1つと工場が閉鎖され、土地利用が変化していき、ラゾーナ川崎の用地は残された最後の一等地でした。その位置づけは昭和58年の川崎市総合計画「2010かわさきプラン」にまで遡ります
豊洲ララポートが位置する豊洲地区は、東京湾沿岸の臨海工業地帯の全体的な土地利用の変化の大きな流れの中にあり、構想は随分古くからありましたが、具体的な位置づけは、平成13年10月の東京都都市計画局による、大規模な造船所跡地を含む約60haを対象とした「豊洲1〜3丁目まちづくり方針」に示されています。
これら2地区では、行政計画としての広域的な位置づけがあるのに対して、武蔵村山のダイヤモンドシティ・ミューでは、このようなものはありません。 ダイヤモンドシティ・ミューは、日産自動車村山工場の跡地に開発されたものですが、平成11年10月に日産自動車が発表した「日産リバイバル・プラン」から始まっています。
平成13年から東京都、立川市、武蔵村山市、日産自動車の4者協議(後に跡地の約3/4を取得した真如苑が加わる)が始まり、平成15年に五者協議会が「まちづくり方針」を発表して、現在はこれをマスタープランとして開発が進められています。
このまちづくり方針で示されている跡地利用のビジョンとしては、@狭山丘陵から多摩川に至る自然の系を生かした環境の街の実現、A賑わいと活気にあふれる都市空間の形成、Bアメニティのある質の高い生活空間の形成、の3点が挙げられているだけです。
計画的に都市を作る姿勢の違いは、出来上がった街の姿に歴然と現れているように思われます。
(2007.4.27)

「中心市街地活性化基本計画」〜閑話休題
今回は少し休憩して、一般的な話題とします。
総合研究開発機構(NIRA)が発行している「NIRA政策レビュー」の2007年1月号に、「都市の活性がもたらす商業の発展」という伊藤理事長の記事が掲載されています。
議論のポイントとして概ね次のような5点が挙げられています。
まちづくり三法の見直しを起点として、より有効な都市計画のあり方を追及する必要がある。
街づくりは、地域間競争、グローバル社会の現実という広い視点で見る必要がある。
都市はダイナミックに変化するものであり、市場活力をうまく利用する街づくりの姿勢が重要である。
製造業中心からサービス経済へ社会が大きく転換する中で、商業分野のダイナミックな動きはその転換の重要な原動力である。
商業は街づくりの核とはならない。高齢者社会を見据えた住宅や公共施設の中心地区への配置を行えば、結果としてそれに付随して商業も育ってくる。

大変考えさせられる論点で、人それぞれに感想があると思いますが、私の関心は次のような点にあります。

中心地区を考える場合、当然に都市空間の構造が関わってくる。
ラゾーナ川崎、豊洲ララポート、武蔵村山のダイヤモンドシティ・ミューは、いずれも工場跡地から大型ショッピングモールへの転換と言う意味では同じでも、都市構造的には全く意味が異なっている。
ラゾーナ川崎は、商業サービス機能の量的拡大・質の多様化による中心市街地の機能強化であり、豊洲ララポートは、基盤整備と一体的に自立性の高い地区形成を図ろうとしているものである。武蔵村山のダイヤモンドシティ・ミューは、余り水準の高くない周辺の既存の基盤施設に依存したショッピングモールであり、都市活動と基盤水準とがアンバランスであるように見える。
都市計画の計画論としては、これまで中心地区に公共施設を配置しようとして来たし、一方、住宅を遠隔地に配置するのを良しとした事はなかったのであるが、では何故そうならなかったのかが問題である。これは都市計画の貧困と言うよりも、もっと基本的な社会意識に関わっているように思われる。利権や地域エゴは論外としても、例えば、中心性に関する拘りが希薄であり、中心地を大切にする価値意識が低いこと(その背景となる要因もさまざまに考えられる)。都市空間の秩序を尊重しようとする規範の規制力が弱いこと。あるいは明確な方針を持たずに、時間がなかったため、土地が確保できたためとして簡便な対応で済ますイージーさ等である。
商業は立地産業であると言われるが、住宅が郊外へスプロールし、ショッピングモール等が郊外立地し、更に公共施設も郊外に移転して、地域構造が変化する中で、中心地区に在来の商業機能が取り残されたのである。この状況が進行している間、政策が商業に偏重して都市環境に関する総合的な視野が欠如していた事が問題だったのであり、バランスの取れた都市構造へ再編することが必要である。
中心地Vs郊外という図式で漸く出発点に立ち返ったと言える。
(2007.3.30)

「中心市街地活性化基本計画の数値目標」(6)
2月8日に富山市と青森市の中心市街地活性化基本計画が内閣によって認定されました。
また、中心市街地活性化協議会の設立も日を追って増えて来ており、日本商工会議所の情報によると既に28を数えています。漸くまちづくり3法の改正は新しい段階に入ってきたといえます。
さて、今回は久留米市の計画内容について見てみます。
「久留米市中心市街地活性化基本計画〜人に優しいスローライフが輝く街(案)」は、今年1月に公表され、パプリックコメントにかけられています。
この計画では、計画期間を5年間と設定し、4つの目標像と6つの数値目標を掲げています。
目標像は次の4つです。
●生活環境の充実した「健やかな街」
●広域都市圏の交流拠点としての「楽しさを発見できる街」
●多様な都市機能の集積によって「都市型サービスを育成する街」
●久留米の『顔』としての「個性豊かな街」
また、数値目標は次の通りです。
@中心市街地内に居住する人口
A市民活動サポートセンターの利用者数
B歩行者通行量(一番街/日曜日)
CJR久留米駅1日あたりの乗降客数
D開業店舗数(営業店舗数の差)
(2007.2.22)

「中心市街地活性化基本計画の数値目標」(5)
中心市街地活性化の数値目標について、いくつかの市の計画内容を見てきていますが、もう少し続けてみたいと思います。
今回は和歌山市の計画内容について見てみます。
「和歌山市中心市街地活性化基本計画(素案)」については、これから和歌山市中心市街地活性化協議会での審議等が行われる事になるようですが、平成23年を目標年次とする活性化の目標については、次のように述べられています。
活性化の目標を、「和歌山城とともにある城まち」として育成していくものとしており、具体的には「城が見えるまちなか居住」(城まち居住)、「城を活かした観光交流」(城まち観光交流)、「新たな商業への転換へ」(城まち新商業)を目指すものとしています。
目標となる数値としては、居住人口、歩行者通行量(旧丸正前)、小売商業販売額、中心市街地観光入込み客について目標値を設定しています。
(2007.2.5)

「中心市街地活性化基本計画の数値目標」(4)
これまで中心市街地活性化の数値目標を富山市、青森市、浜松市について見て来ましたが、今回は岐阜市の様子を見てみたいと思います。
日本商工会議所の情報によると、中心市街地活性化協議会が設立されている地区数は、平成18年12月21日現在で18地区となっています。これら18地区の中で最も早く、今年8月22日に設立されたのが、岐阜市中心市街地活性化活性化協議会です。
岐阜市中心市街地活性化活性化基本計画(素案)はまだ未定稿の段階ですが、定性的には目標像を知る事が出来ます。
この基本計画では、計画期間として平成22年度を目指しており、次の5項目について設定しています。
@居住人口・住宅床面積 
A商業販売額・商業床面積
B来街者数・通行量
C空店舗・跡地利用  空き店舗の約半数の解消を目指す。大規模空閑地は百貨店跡地1ヶ所の活用を目標とする。
D従業者数
目標となる数値については、現在協議調整中のようです。


「中心市街地活性化基本計画の数値目標」(3)
前回、前々回と中心市街地活性化の数値目標を富山市、青森市について見て来ましたが、今回は来春の政令指定都市昇格を目指している浜松市について見てみたいと思います。
浜松市では、「第2次浜松市中心市街地活性化基本計画(案)」を策定中です。この計画案は平成18年度を初年度とする10年間の計画期間となっています。
10年後の平成27年(2015年)は、市の人口がピークに達し、この後減少に転ずると考えられているそうです。
目標水準となる指標には、人口、来街者数、年間小売販売額の3つが選ばれています。
人口については、中心部4区の居住人口と従業者数について、住民基本台帳、事業所統計ベースでそれぞれの各要因を考慮した増加目標を設定しています。
来街者数については、中心商業地の歩行量(中心市街地歩行量調査の全調査地点平均)が増加するものとし、あわせて公共交通機関での来街比率の向上を図るものとしています。
中心部4区内の全事業所の年間小売販売額は平成3年をピークとして減少を続けていますが、経営破綻した百貨店の跡地再生事業等によって底から持ち直すことを目標として設定しています。


「中心市街地活性化基本計画の数値目標」(2)
この度行われた中心市街地活性化に関わる一連の制度整備のなかでは、特に数値目標による進行管理が強調されているため、前回のこのコラムで中心市街地活性化に関してはトップランナーの1つに挙げられている富山市の数値目標を取り上げましたが、今回は富山市同様トップランナーとしてコンパクトシティを目指した都市づくりを進めている青森市について見てみたいと思います。
青森市では、現在「新青森市中心市街地活性化基本計画案」を策定中で、11月15日までパブリック・コメントを実施中です。
この計画案の中では、中心市街地活性化の目標として4つの数値目標を設定しています。
目標1 多くの観光客を集客する中心市街地(交流まちづくり)
     評価指標 中心市街地観光施設の観光入込客数
目標2 多くの市民が賑わう中心市街地(街のたのしみづくり)
     評価指標 中心市街地の歩行者通行量
目標3 歩いて暮らしやすい中心市街地(街なか居住の推進)
     評価指標 中心市街地夜間人口
目標4 中心商店街の活性化
     評価指標 空き地・空き店舗率
青森市では、東北新幹線青森駅の開業が予定されているため、計画期間を新幹線開業1年後の平成23年として事業の進捗管理をするものとしています。 (2006/11/08)


「中心市街地活性化基本計画の数値目標」
中心市街地活性化の枠組みが整ったことをうけて、各地で具体的な取組みが動きだしているようです。先ずは基本計画の策定もしくは改定からと言うことになるのでしょうが、今回は特に数値目標による進行管理が強調されているため、各都市がどのような数値目標を設定するのか興味が持たれる点です。
富山市は、中心市街地活性化に関してはトップランナーの1つに挙げられている都市ですが、「新富山市中心市街地活性化基本計画(案)について」(平成18年8月30日)によると次のように設定されています。
まず、「まちなか居住の推進」、「賑わい拠点の創出」、「公共交通の利便性の向上」を3本柱の目標として数値目標を設定するものとしています。
@「まちなか居住の推進」に関しては、まちなか居住者数を指標とし、施策による住宅供給量の増加をもとに約1.2倍の増加目標を設定。
A「賑わい拠点の創出」については、歩行者通行量(日曜日)を指標としており、3地点の新規施設の整備による増分を基本として、約1.2倍の増加目標を設定。
B「公共交通の利便性の向上」の数値目標については、現在検討中との事です。
数値目標の設定については、中心市街地活性化によって何を実現するのかと言う目標設定が明確になっており、その目標の達成状況を的確に示す指標を選定する必要があるわけですが、この点に関して私が面白いと思った論文は、望月康博「ショッピングセンター専業デベロッパーが展望する都市生活の姿」(都市計画Vol.54/No.5)でした。(2006/10/14)

二宮 公雄

二宮都市研究所
代表

1.住民によるまちづくりプラン
 ○津久井湖周辺地域まちづくり委員会
 ○写真集「わが町 中野」
 ○“ゆうきプラン”
 ○津久井湖周遊歩道計画

池田 利道

株式会社リダンプランニング
代表取締役

まちづくりビジネス・ファイル

1.中心市街地活性化を考えるもう一つの手法
(1) 商店街が元気を無くした15の要因
(2) キーワードは『コミュニティビジネス』
(3) 起業化へのソフトランディング

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