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ホームプランナーの活動

ちょっとメモランダム(2011年分)


組合や組合メンバーの活動ご紹介、メンバーが出合ったちょっと役に立つ情報や気になること、あるいは日頃の活動の中で感じた独り言などなど、書きとめておきたいことをランダムにレポートします。
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商店街連合会の60年
 先般、川崎中央商店街連合会の60周年記念祝賀会が行われ、参加させて頂きました。
 当日配布された資料には、昭和34年4月に華々しくオープンした川崎民衆駅の写真や商店街連合会主催の昭和50年川崎カーニバルのプログラム等が収められていますが、人にとっても還暦にあたる60年間、歴代の役員・会員の方々がこの組織を営々と維持し続けてきたのが並大抵の事ではなかったのは容易に想像出来ます。
 商店街連合会が結成されたのは、1951年(昭和26年)4月10日ですが、この年は前年に始まった朝鮮戦争で北朝鮮・中国軍が38度線を越えて南下して来ており、一方、強硬な姿勢を示したマッカーサー元帥が解任されると云った騒然とした世情の時期の事でした。
 その後、戦災復興、高度成長、オイルショック、バブルとその崩壊、と世の中は大きく振幅を繰り返しながら今日に至っています。川崎駅周辺でもこの間、戦前から続いていた老舗の閉鎖、都心型百貨店の進出と撤退、大型アミューズメントの誕生とハロウィンパレードの恒例化、駅に直結したショッピングセンターの開設等さまざまな動きがありました。
 60年の間、この連合会は歴代10人の会長に率いられて来ています。商店街は、地域の人々に心の潤い、コミュニティの核としての役割などを提供して来ました。人口減少、少子高齢化などこれからの社会の行方は決して明るい姿とも云えないですし、経営効率一本やりの新自由主義的企業に比べると商店街連合会が生き延びていく事の多難さが思いやられますが、したたかに、そしてしなやかに次の60周年を迎えて欲しいと思います。
(2011.12.1)
ジェイコブス対モーゼス
 「ジェイコブス対モーゼス〜ニューヨーク都市計画をめぐる闘い」(アンソニー・フリント著 渡邊泰彦訳 鹿島出版会)を興味深く読みました。
 片や市民まちづくりの教祖的存在であり、「アメリカ大都市の生と死」の著者であるジェイコブスに対するニューヨークの大都市開発の天皇的存在であったモーゼスとの丁々発止の対決であり、正に千両役者の闘いであると言うだけでも興味深々の物語です。

 ジェイコブスは、生まれも育ちも根っからの庶民であり、それ故に一般の市民と同じ目線で都市を見る事が出来たのだと思います。そのため、多くの人々との共感が生まれたのでしょうし、都市開発を日々の生活との関わりの中から問題提起する事ができたのだと思います。
 これは、従来からの都市開発には欠落していた視点であり、この問題提起は、極めて新鮮で、また多くの人々に対して説得力があったのだと思います。
 一方、彼女がプロデュースした集合住宅プロジェクト・ウェストビレッジハウスについて、計画論としてあるいは政策論としてどのように評価されるのか、批判する立場と、創る立場とをどのように乗り越えているのか、詳しく知りたいと思いました。

 モーゼスは、エリート出身で秀才で、まさに絵に描いたようなテクノクラートです。官僚機構を自由自在に使って、世論操作を行い、自分が描いた計画を実現すると言う、こんな事ができたら人生楽しいだろうなと思えるようなプロフェッショナルライフです。一度も選挙の洗礼を受けていないと言うのも大変意味深長な話です。
 最終的には挫折してしまったローヤーマンハッタン・エクスプレスウエイマンハッタンは、島内に2ヶ所しかアクセスがないため、さらなる混雑が発生すると言うジェイコブスの批判がありましたが、さまざまなプロジェクトについて、計画意図と実績についての評価がどの程度行われているのか、気になる所です。いずれにしても、丁寧に地元対策を行う事には大して関心がなく、広域的なプランの実現を目指していたと言う印象は否めません。
 近年になってモーゼスの再評価気運が高まって来ているそうですが、行き詰まりつつある都市問題を抜本的に解決できない事に対する世間一般のいらだちもあるのかも知れません。

 著者はジェイコブスに共感する立場で、この本を書いていますが、相対立する2つの目標、広域的な合理的システムの形成と地域住民の快適な生活の場の保証とをどのように総合化するのかと言うのは、ある意味永遠の課題なのではないでしょうか。
(2011.10.24)
「まんがぱーく」は是か非か?
 立川市では、昨年5月に新市庁舎が完成し移転したのでしたが、移転に伴って遊休化した旧庁舎の活用についての事業説明会があるというので聴きに行って来ました。
 市側の説明によると旧庁舎施設等の活用に関する基本方針は、(1)「まんがぱーく」を中心として内外に文化情報を発信する、(2)市民参加型の活動を中心として賑わいを持続発展させる、(3)公民連携による市民福祉を増進する、と言う事のようです。
 一通りの説明が終わった所で、出席者からの質疑・意見などが求められたのですが、何とも驚いた事には全ての意見が反対、あるいは市民・市内各団体の意見が反映されていない等このプロジェクトに対して否定的なものばかりでした。
 市民側から提起された主な論点は3つだったようです。
 1つは、この経済不況、大震災後の大変な時期に、税による大規模な投資をするのが果たして適切な事なのか、世の中には職のない人々が溢れており、厳しい生活を強いられている人も大勢いると言うのに。2点目は、マンガは本当に地域の文化向上に貢献する事になるのか。事業審査委員会の顔ぶれを見ると、“やらせ”ではないかと疑いたくなる。そして3点目は、このプロジェクトには、市民の意向が反映されていない。
 私は状況について何も知らずに出席し、初めて事業説明を聞いたのですが、予断無しに聞いていると、行政側の説明よりも、市民側の主張のほうが尤もであると言う気がしてきます。どちらかと言うと、行政側は手続きの正当性を説明し、市民側は理念の正当性を述べているように思われました。
 この説明会は、一方的に打ち切られて終了しました。そして、明日からは又、「まんがぱーく」の事業化が粛々と進められる事になるのでしょう。
 振り返って見ると、なんとなく「まんがぱーく」を地で行っているような気がしないでもありませんでした。
(2011.9.15)
既存不適格建築物
 「既存不適格建築物」と言うのは、現在既に建っている建物の利用容積率が、都市計画で決められている指定容積率を超過しているものの事です。
 元々容積率や建蔽率などの形態規制は、「既存不適格建築物」が多くならない様比較的緩い指定内容になっており、そのためにそれぞれの敷地で指定一杯に利用されると過密な市街地になる恐れがあると云われて来ていた様に記憶しています。
 私も「既存不適格建築物」がある事は勿論知ってはいたのですが、中心市街地等には、結構多く存在しており、しかも各地で問題がかなり広がっているようだと云う事に最近になって気づかされました。
 例えば、東京都中央区では、この問題を解決するための制度を解説したパンフレットにこう書かれています。「銀座地区は、日本有数の商業地として発展を続けていますが、地域を代表する建築物の多くは、老朽化も進み既に更新時期を迎えています。しかし、老朽化している多くの建築物は、昭和39年の容積率制度導入以前のものであり、現行の制度の中での建て替えを行うと、従前規模確保も出来ないなど円滑な更新が行えない状況となっています。・・・」
 どうも銀座地区だけではなく、昭和39年の建築基準法改正に伴う容積率制度導入に際して、各地でダウンゾーニングが行われていたと言う事のようです。
 建物自体の老朽化、新耐震基準以前の建物であるので耐震性能の向上を図る必要性、それに3月11日の東日本大震災が追い討ちをかけている状況で、早急に環境改善を図る事が求められています。
 では、どうすればよいのか。事業者、権利者等の民間活力の効果的な活用は不可欠ですが、だからと言って単純に規制緩和と云う訳にも行かないでしょう。
 関係者が許容できる範囲での妥協をしながら、それぞれの地区特性に応じた環境改善が実現できるような落ち着き先を探す必要があるのではないでしょうか。
 以上はいわば過去の精算に関わる課題ですが、未来には人口減少、少子高齢化が待っています。建て替えはペイするビジネスなのか、回復された容積は有効利用できるのか、街の魅力化・個性化をどう実現するのか、街づくりも厳しい場面に向っているのを実感します。
(2011.8.22)
川崎都心のイメージ
 最近、川崎都心の来し方、行く末について、少し長い目で考える機会がありました。
 切り口はさまざまにあると思いますが、まずは全体として基本にすべきなのは、「オール川崎都心」について、明るく個性的で、そして多くの人々に好感を持たれる様な地区のイメージを創りあげる事だろうと思いました。
 現在は決してそのような好いイメージを人々に持って貰えているとは云い難い段階だと思うので、原点に立ち返ってさまざまな側面から魅力的なイメージ創りを目指すのが良いように思います。
 まずは、現在進められている駅前広場の整備や公園整備など個別の整備を総合化して、一歩先の川崎について物語性のあるイメージを作る事が大事だと思います。例えば、横浜の元町が、かってわが国の西洋文明が入ってくる玄関口であった事と連想してイメージされるように、川崎と云う都市が持っているDNAを培養して、鮮明な都市像を訴えるようになる事が望まれます。ゲニウス・ロキ(地霊)と云う言葉があります。川崎の場合は、先端的な都市エンターティメントが、そのようなものの1つではないでしょうか。終戦直後の焼け跡の中で復興した映画街から、近年のチッタデッラやハロウィン・パレードに至るまで。
 もう1つのイメージづくりは、「公害の街・川崎」からの脱却です。昭和30年代から40年代をピークとして、川崎は、京浜工業地帯の公害の街として、広く知られていました。かすかな記憶ですが、川崎市が、市内小中学校の子どもたちに、川崎はどんな色だと思うかアンケート調査をした所、灰色と言う答えが多かったと言う報告書を読んで愕然とした記憶があります。さすがに現在はそんな事はありませんが、人々の記憶は、長く尾を引くものであり、印象が変わるには、一世代、25年から30年位はかかるものだと考えておいた方が良さそうです。現在は、(-)を(0)に戻し、僅かばかり(+)に転化している位の状況ではないでしょうか。
 3点目として考えるべき点は、広域的な位置づけに関わるイメージを変えていく事です。
 川崎は長い間、「東京と横浜に挟まれた」都市と言われて来ました。これを上述のイメージ創りに合わせて、東京〜川崎〜横浜と、3つの個性を持った都心地区の連坦へと変えていく事です。
 関西の例があります。京都〜大阪〜神戸は、それぞれに異なった個性を持つ中心地として存在しています。挟まれたり、依存したりと言った関係ではありません。
 関東では、どうして、このような相互関係が成立しなかったのか、その大きな理由は、わが国のこれまでの中央集権構造の強さの中にあったのではないかと思います。
 東京への一極集中によって、巨大な集積が形成され、周辺へ裾野が広がっていると云うメガストラクチャーが形成されているのが、関西とは基本的に異なっている点です。
 その点からも、国と地方は、主従関係ではなく、対等・協力の関係にあるという地方分権の進展が追い風になってくれることを期待しています。
(2011.7.12)
自治体にホールは本当に必要か
 最近、多摩地域で2つのホールがオープンしました。いずれも今年4月の事なのですが、八王子駅南口にオープンしたオリンパスホール八王子(新八王子市民会館)と武蔵小金井駅南口にオープンした小金井市民交流センターです。
 多摩地域には既に多くのホールが長年に亘って多彩な活動をしており、私も、たちかわアミュー、府中の森芸術劇場、調布市文化会館たづくり くすのきホール、パルテノン多摩、秋川キララホールなどコンサートを聴きに結構出かけています。
 そして、これらの既存のホールに加えて、新しく2つのホールがオープンした訳ですが、私の率直な感想は、多摩地域には既にこれだけのホールが存在しており、ひょっとすると経営も決して楽ではないのではないかと思われるのに、まだ、新しいホールを作らなければならない理由は何なのか、何が作ることを推進する力となっているのか、と言う事です。
 多分それぞれの市議会でも検討した上で多数の人が賛成した結果なのでしょうし、行政も前向きにさまざまな検討を行い、膨大なエネルギーを費やしてホール建設を進め、完成させたのでしょうから勿論大義名分は揃っている事と思います。
 しかし、本音はどういう事だったのでしょうか。以下のようなものが思い浮かぶのですが、どうなのでしょうか。
他の街にはホールがあるのに、わが街にはないのでカッコが悪い。議員さんによる自己満足が推進力になったという事は無いでしょうか。
ハード事業を成立させるため。八王子も小金井も新設されたホールは、再開発事業で建設されたビル内に入っています。近年再開発事業を成立させるために、施設床を処分し、事業収入を確保するのは大変厳しい状況だと推察されます。このような状況の中では、行政が多額の支出をして大きなスペースを確保してくれるのは、事業成立上大変有り難い事です。
ニーズに対応できない。実際問題として、市民のニーズに応えられない場合もありそうです。市内各種団体の年次総会、入学式・卒業式など。もし、本当にこのような市民ニーズに対応出来ていないのなら、その時こそ、本当の広域行政の出番となるのではないでしょうか。決して規模が大きい自治体ばかりではない多摩地域で各市1つと言う事でなく、市町の範囲を超えてまとまった規模の地域人口を対象とした圏域を設定し、利用を融通し合えるようキチンと議論すべきではなかろうかと思います。
(2011.5.16)
震災復興のプランニング
 テレビで被災の状況を見ていると、まるで日本列島がフォッサ・マグナで2つに割れて沈没して行く、40年前のベストセラー「日本沈没」(小松左京著)のような凄惨な光景でしたが、これはフィクションではなく、現実に起こっている出来事の実写です。
 もしも自分の周りで起こったらと思うと、とても他人事とは思えません。
 今回の震災で被った影響は、地震そのものはもとより、津波による被害と原子力発電所の損壊に伴う環境への影響が合わさって被害を極端に増大させたのが特徴だった様に思います。

 震災から一ヶ月近くが経って、ようやく現地調査にも入れるようになったようで、日本都市計画学会、日本建築学会、日本学術会議、関連団体合同の調査報告会、シンポジュームなどが開かれるようになってきています。

 復興計画づくりについては、阪神淡路大震災の教訓などこれまでの計画技術の蓄積の上に多くの提案が考えられます。津波からの安全性を考慮した高台での計画開発、コンパクトな市街地形成、学校等を防災拠点とするなど場面に応じて何重にも高度に活用できる公的施設のネットワーク形成などが思い浮かびますが、多分それらだけでは充分ではなく、われわれがこれから生きていく社会の枠組みについてのイメージを明確にしておかなければ、本当に納得できる復興の姿にはならないような気がしています。

 まず1つには地域再生のあり方であり、被災された人々が将来の生活の本拠地として、津波に襲われた従前の自宅へ帰るのか、より安全だと思われる高台へ生活の本拠を移すのかです。
 4月11日付の新聞報道によると、宮城県の復興方針素案では、住宅や公共施設などを高所に移転誘導するそうです。常識的に妥当な方針だとは思いますが、当事者にとっては先祖代々あるいは自分史の、土地に刻まれたさまざまな記憶の蓄積等から惜別する事ですし、安全性・機能性は一定程度確保出来るとしても、漁港その他仕事上の位置関係や生業ネットワークの構築等これからの生活への展望(これらも決して明確なあるいは予定的な展望とはならないと思いますが。)をどうやって組み立てるのか。当事者には重い課題が突きつけられている筈です。
 また今回は技術至上主義に対する反省及び技術との付き合い方に関わる基本的なスタンスのあり方も問われているように思います。
 福島原子力発電所の日毎に報道される新たな問題点、一定の安全性を考慮して作られていた筈の防潮堤が乗り越えられて惨状を呈する結果になって、今後は何処までの安全性を担保できるものを再構築するのか、そして社会はそれに信頼を寄せてくれるのかといった点です。
 更に最も厳しい要請は、総量コントロールとストイシズムに関わる点です。
 計画停電と言う電力需給をバランスさせる苦肉の策がしばらく行われましたが、街ではそれぞれの主体が、独自にそれぞれの場で節電に努めており、街の表情は随分と変わりました。
 今後の高齢化の進展とも併せて考えると経済再生の道のりは厳しく、京都議定書問題だけでなく電力、燃料その他についても総量コントロールを行う事によって社会運営を安定化させる必要が出てくると思われます。欲望を拡大するのは簡単ですが、その逆は大変です。どれ位セルフコントロールが出来るのか覚悟を問われているような気がしています。
(2011.4.14)
「五一C白書 私の建築計画学戦後史」鈴木成文著
 2006年12月に出されたこの本は建築計画学の関係者の間では静かなブームを呼んでいたのは知っていましたが、今回初めて手にとりました。
 五一Cと言うのは、1951年度の鉄筋コンクリート造公営住宅標準設計の3タイプの中で、最も規模が小さい型(12坪)の名称です。
 この設計に関しては、さまざまな誤解や短絡があり、書き足りない事があったため、著者はこの設計が生まれた背景、設計の主旨、プランの限界など、作成に携わったものとして言っておかなくてはならないとしてこの本を書いたそうです。
 戦災復興の過程で緊急大量に住宅供給を行わなければならなかった時代状況の中での設計であって、空間構成の基本として(1)2寝室の確保、うち1つを「基本寝室」(夫婦寝室)とする、(2)家族全員がくつろげる部分と基本寝室とを壁で仕切る、(3)少なくとも朝食の分離ができるよう台所を広めにとる、事が挙げられています。また、五一Cは巷間「nLDK」型プランの元祖だと言われていますが、これは全くの誤解で、「nLDK」型プランは不動産ビジネスの中で住宅の商品化として生まれたものであることなどが述べられています。
 このような戦後住宅計画の経緯は、それとして大変面白かったのですが、私はこの本に2つの点で興味を覚えました。
 1つは、鈴木氏は終始生活領域に関心を持っていたことです。行動の道筋に沿って確定領域・潜在領域と徐々に伸びて連続し、やがて都市へと拡がって行く、その中で住戸近傍の領域化に配慮する必要があるというものです。
 鈴木氏がかって阪神淡路大震災の復興住宅の住戸プランについて、何ら改善が見られていないと厳しく批判していたのを思い出します。
 もうひとつ興味を覚えたのは、社会学者との論争でした。シンポジュームで、社会学者が「建築家は空間帝国主義者です」と言っているそうです。
 面白い表現をするものだと思いますが、設計と言う行為に関わるかどうかの立場の違いは埋まらないのかもしれません。
(2011.3.8)
中野ブロードウェイと都市の生活
 青島幸男氏が東京都知事だった時代に彼は何を考え、どんな行動をとっていたのか、その思想と行動を知りたいと思い数冊の本を紐解きました。
 読んでいて感じたのは、青島氏の活動のさまざまな場面で彼が当時住んでいた中野ブロードウェイが舞台となっていると言う事でした。
 こうして、私にも記憶がある竣工当時の姿が甦り、懐かしい思いを抱くと共に、都市住宅の中で営まれる生活にイメージが広がって行きました。
 中野ブロードウェイが建設されたのは、1966(昭41)年の事で、現在では既に45年が経過し、社会的にも物理的にも耐用期限が近づいているのを感じます。
 この建物は、地上10階、地下3階で、地下1階〜地上4階が商業施設約350店舗、5階〜10階がマンション約220世帯になっています。建設当時は周辺を圧倒するような大規模建築物だったようです。
 店舗群については、マンガ古書店「まんだらけ」を始めとしてサブカルチャーの中心地だそうですが、建物内を歩いていると小さな区画の「まんだらけ」が何ヶ所にも分散展開しており、その他にもコインショップ、ミニカーショップ、フィギュアなど渾然として雑多な店舗群が「ロ」の字型の通路を囲んでおり、不思議な雰囲気の空間になっています。
 話を戻して、青島幸男氏は、店舗群の上のマンションに住んでいたのですが、知事時代に、この建物をどう使っていたか、同氏の著書によるとこんな具合です。
 まず、選挙事務所として使われます。本人の政見放送の原稿執筆、スタッフとして家族5人と協力者3人の「七人の怒れる男」(実際は女性が4人)のチームで電話・FAXでのやりとりや来客への応対、ポスターの発送、炊き出し等でてんてこ舞いをしたそうです。
 投票日当選確定後の記者会見は、200人以上の報道陣が詰め掛けて、マンション5階の集会所で行われています。
 放送作家としての原稿を自宅で執筆したり、また自宅にいる事が好きな人だったようで公務の間でも少しでも時間があると自宅で寛いでいたようです。

 *「青島幸男とたった七人の挑戦」青島幸男、徳間書店
(2011.2.8)
街づくりと企業進出
 立川の街づくりに関心を持つ人にとって、暮れに嬉しいニュースが飛び込んできました。国有地の払い下げで落札者が現われたというものです。
 立川は、旧立川基地の跡地を中心として、およそ20年間にわたる再開発事業が進められてきた結果、駅周辺の一帯で商業業務機能の集積が進み、今や新宿以西の中央線各駅の中でもっとも利用客が多い地区になってきています。
 このような今日の状況を生み出した背景には、基地跡地の活用があるのですが、その基地跡地でまだ処分が終わっていない街区が、3街区計約8ha残されていました。
 財務省では、過去に3回売却の入札を行っているのですが、いずれも不調に終わって今日に至っていました。ここへ来て3街区の中の、立川駅から一番離れているA街区約2.6haについて、12月14日の一般競争入札で落札者が現われたというものです。
 財務省は落札者と今月13日までに契約する予定になっており、それまでは落札者は公表できないとされています。が、マスコミの調べによると落札者は「IKEA」であり、同社もこれを認めているとの事です。
 スウェーデンの大型家具販売店である「IKEA」は欧米でも数多くの都市に出店している、国際的にもメジャーな家具チェーン店であり、既に国内にも5店舗出店しています。
 近くでは、横浜市都筑区に「IKEA港北」があります。この店は店舗面積約25,000平方メートルで平成18年オープン、第3京浜港北インターの直ぐ近くに立地しており、また、新横浜駅、田園調布駅からのシャトルバスサービスもあります。広い店内には北欧に特徴的な、シンプルで合理的な家具などが置いてあり、子供連れのヤングファミリーが休日を過ごすのに楽しめるような店舗です。
 立川での開店は5年後との事ですが、街づくりの観点からこれをどう評価するのか、私は3つのポイントがあるのではないかと思います。
 (1)機能集積の高度化の観点
 (2)土地利用の高度化の観点
 (3)回遊性の拡大の観点
 ここへ来て跡地開発に希望が出てきた意味は大きいと思っています。
(2011.1.12)

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